2010年12月15日水曜日

共産党の評判

私には今まで、共産党の評判はあまり良く無かった。
そもそもソ連が崩壊したので、共産党はもう古くてダメという評価が確定したように思っていた。


しかし、ソ連が崩壊してみたら、
共産党が「宗教はアヘンだ」と言って、絶対に消滅させられていたと思っていた宗教、ロシア正教(キリスト教)がしっかり生きていた。


共産党て、言っていることと、やっている事が(良い方向に)違うのではないかという感想を持った。


しかし、中国共産党の文化大革命では、多くの中国文化人を粛清した歴史を聞いている。
これが、共産党と言うと信用できないと思う思いの根拠となっている。

しかし、アメリカで9.11以降、人知れず殺害されたジャーナリストか誰かがいたという話をどこかで聞いた。
これって、中国の「文化大革命」と同じではないか。


中国共産党だけが悪のように思っていたが、
資本主義のファシズム化と、共産主義の嫌な面とを天秤にかけて、
どちらを選択するか、
冷静な目で見ていく必要を感じている。

(参考に)以下のサイトが共産党の評判を解析しています。

共産党が支持されなくなっていった理由

タイトルに書いた「共産党が支持されなくなっていった理由」ですが、結論から述べるなら、党の議員ないし活動家が同時代を生きる人間の共感を持ち得なく なっていったためだと僕は思っています。そのことを考えるために、京都出身の政治家、野中広務氏の著作を引用します。共産党は京都で強いことが知られてい ますが、その背景には7期28年の蜷川虎三知事による府政があったことが知られています。ではその蜷川知事はどのような人物だったのでしょうか。

     さらばトラさん

七期二十八年間、知事を務めたトラさんこと蜷川さんが知事を去る日がきた。
蜷川さんとは十二年間、対決をすることになったが、個人的には大変魅力のある人だった。蜷川さんが二十八年間も知事の座にいたというのは、イデオロギーの 問題ではなく、彼自身の魅力があった。それは、イデオロギーで武装しようと思っても滲み出てくる日本人としての精神とでもいおうか。彼は、いわば生粋の明 治人だった。

特に皇室に対する深い敬意にそのことが現れていた。例えば、今の皇太后さまが京都にいらっしゃった時、蜷川さんは京都駅までお出迎えをし、京都府下をずっ と一緒に歩かれていた。宮内庁からの恩賜の煙草を蜷川さんは必ずポケットに入れて大事にしていた。蜷川さんが京都の町を歩く時、お年寄りにこの恩賜の煙草 を二本ずつあげる。知事閣下から、恩賜の煙草をいただいたというのでお年寄りは、本当に随喜の涙を流して感激した。私たちはこうしたお年寄りから、「あん たたちはあんな立派な方を共産党だなんてとんでもない」と叱られる。

野中広務「私は闘う」文春文庫 2000年3月5日第4刷 pp.226-227

一言で表すなら、「人物的魅力」がある政治家だったということでしょう。思想、イデオロギーよりも、同時代を生きる人間としての共感(この場合は皇室に対 するあり方)があったから選挙に強かったのではないかと思います。そんな氏を野中氏は「生粋の明治人」と呼ぶわけですが、非常に優れた表現だと思います。 ついでなので、「ヤメ共」の人間による蜷川評も。日本共産党の元参議院議員、橋本敦氏の秘書で北朝鮮による日本人拉致問題に取り組んできた兵本達吉氏は次 のように述べています。
(3)蜷川虎三京都府政

蜷川虎三(一八九七~一九八一年)は、京都大学の経済学部で教授を務めたあと、吉田内閣で中小企業庁の長官に就任。その後、推されて京都府の知事となった人である。

当初は、どちらかと言うと保守系の知事だったと思うが、学者時代、マルクス経済学をやっていた関係で次第に「左傾」して社共の推薦で知事選に出馬した。晩 年は日本共産党べったりの観があったが、保守性と革命性がチグハグに入り交じった奇怪な人物であった。右手で日の丸を振り、左手で赤旗を振って全然怪しま ないような人であった。
彦根藩の家老の家柄で、幕末の「蛤御門の合戦」の折、いの一番に駆けつけたけれども、「押っ取り刀」を忘れて行って有名になった、大変そそっかしい家柄だ と自称して、聴衆をよく笑わせた。筆者の実姉が養女に行った家のバアさんと、蜷川家のバアさんが明治天皇の女官として同期の桜であるという、左翼らしから ぬご縁があって、蜷川知事の個人的エピソードは、色々と聞かされた。共産主義も天皇陛下も同じくらい好きだという矛盾に満ちた個性は、この家系によって説 明される。

兵本達吉「日本共産党の戦後秘史」新潮文庫 平成20年11月1日初刷 pp.438-439

蜷川氏を「奇怪な人物」、「矛盾に満ちた個性」と書いていますが、どうだろうか。個人的には野中氏の「生粋の明治人」という評価の方が適切だと思っていま す。現在でこそ、左派、リベラルにおいて「国民国家批判論」は一応抑えておくべき教養になっているように思いますが、かつては愛国者であることと左派であ ることが矛盾なく共存し得た時代もあったということでしょう。その感覚を適切に表現したのが、繰り返しになりますが野中氏の「生粋の明治人」という表現だ と僕は思っています。

 

2010年12月12日日曜日

京都府の共産主義政権時代

蜷川 虎三(にながわ とらぞう、1897年2月24日 - 1981年2月27日)は、経済学者統計学者。元京都府知事1950年 - 1978年)。


政治家への転身、京都府知事へ

1948年(昭和23年)に初代の中小企業庁長官となったものの、吉田茂首相と中小企業政策をめぐって対立し1950年(昭和25年)に辞任。
同年、日本社会党公認・全京都民主戦線統一会議(民統)推薦で京都府知事選挙に立候補し当選、以後7期28年間知事を務める。
なお、同年には参議院議員選挙京都市長選も行われ、それぞれ民統が推した大山郁夫高山義三が当選する。
しかし高山市長はその後保守系に軸足を置き始め、高山が市長を退き国立京都国際会館館長になった後でも確執が続いた。


府政後半

しかし後期になると状況が変わる。このころ、蜷川に対し古巣の社会党が露骨な個人的要求を突きつけるようになっていた。
蜷川はそれを嫌い、もうひと つの与党「共産党」に力を与えるようになった。
それに伴い、共産党は京都府全体で急速に勢力を伸ばすようになったのだが、逆に社会党は勢力がダウンしてい き、彼らは蜷川や共産党を目の敵にし始める。
同時に府政のバランスが悪くなりイデオロギー色が急激に強くなっていった。
加えて自慢の府政でも問題も発生する。
例えば、交通・生活行政。蜷川府政の下、山間部や日本海側の開発は急激に進んだのだが、都心部では住民の開発 反対運動の意向を蜷川が気にしたため(蜷川の支持母体は都市部の住民団体が多かった)、あまり手をつける事ができなかった。
この影響で、都市部の上下水道等のインフラ整備や道路の舗装は大幅に遅れ、「道路や下水道の様子を見ると京都に入ったのがわかる。」と揶揄されるほどであった。


また、教育問題や福祉などでも「蜷川府政の教育政策は悪平等で競争をさせず生徒を甘やかし、駄目にするだけだ(京都大学への府立高校からの進学率低下などが材料にされた、またスクールウォーズのモデルになった伏見工業高校のように荒廃した公立校も数多く出ていたため。ただし伏見工業高は市立校である)」「学校内外で教職員組合の横暴が過ぎる」「税金によるばら撒き福祉だ」という批判が頻繁に出されるようになった。


府で大量に雇った公務員の質の問題も取りざたされ、地元マスコミ(京都新聞など)による追及が連日連夜繰り返された。


それらの逆風がふいても、蜷川知事は高い実務能力と、膨大な公約実現で積み重ねてきた信頼を武器に、5期目・6期目の選挙でも圧勝する。
蜷川はこの 勢いに乗り、一気に行財政改革を進め、府の機構を効率化した。
また、今までの企業誘致策や観光施策をより進めたことで、この時期、他自治体が非常に苦しん だオイルショックによる税収減も難なく乗り越える事ができた。

知事引退から死去まで

しかし、7期目を目指した1974年(昭和49年)の知事選では自民・公明民社に加えて社会党右派までが推した対立候補(前社会党参議院議員だった大橋和孝
大橋は蜷川の推薦を決めた党本部の方針に背いたとして後に除名処分となる[1])に大苦戦。
わずか4千票の僅差でようやく当選したものの、この苦戦や自らの年齢(当時78歳)に限界を感じた蜷川は、1978年(昭和53年)に知事を引退。

蜷川にとって最後の京都府本会議で、府議会議員であった野中広務は『横綱に子供が飛びかかる光景』、『議場が蜷川教授の教室』と例えた演説を行った。


その後の1978年京都知事選で、後継の杉村敏正候補が自民推薦の林田悠紀夫に敗れ、28年間にわたる革新府政は終了した。
その後は、悠々自適の余生を過ごし日本共産党の応援などをしていたが、1981年(昭和56年)3月に84歳で死去した。


蜷川虎三

<<   作成日時 : 2007/11/07 16:51   >>
なにかの席で現行憲法はすばらしいと話したら、たちまち「おたくは共産党?」と聞かれた。
さすが京都というべきか、結構、当たり前のことを話すにも気を 使ってしまう。
やはり京都では共産党の勢力はあなどれない力を持っている。
 
市議会は自民党にひけをとらない議席数だし、共産党系とみられる労組・団体も多 い。 
他都市と比べると、多くの市民の中に好き嫌いも含めて共産党の存在感が高いことは事実だ。
 
70年安保、大学紛争のさなかに京都府知事選が行われ、74年にも知事選は大激戦だった。 
政令市である京都市民にとって知事の権限は、ある意味たかが知 れている。 
だがいずれも当時の蜷川知事は京都市内で圧勝、大逆転もしている。 蜷川府政についてはさまざまな論が聞かれるが、戦後の地方政治をみる上で希有 な存在だったことは間違いない。 
地方自治とはなにか、常にゆるぎない尺度があった。
難しいことを難しく、横文字を並べてとうとうと喋ることは、一定の知識 がある人ならだれでもできる。
蜷川知事は難しいことを分かりやすく平場の人たちに伝える能力には卓越したものがあった。 
彼は、大学教授出身にしては珍し く、言葉だけにとどまらず、学問を住民に還元する術を知り尽くしていたと思う。
「蜷川のおかげで京都は開発が遅れた」「赤い袈裟を被った知事」などと、選挙の度に相手陣営からも攻撃された。 
しかし、地方自治の灯台と称された数々の 業績は疑う余地はない。
いま京都がまだかろうじて京都であるのは蜷川知事の功績が大だと思う。 
昨日の日経最終面「私の履歴書」で京都大学で蜷川教授から経 済原論を学んだ田淵節也氏(野村證券元会長)が「蜷川さんが京都府知事になったとき、僕は共産党でも融通無碍(一定の考え方にとらわれず、どんな事態にも 対応できること)だから長続きすると思った。
 
7期28年の蜷川府政の評価は分かれるが、京都の町並みを守ったのは立派な業績だと思う」と記している。 人間、肩書きが外れ、組織のしがらみから脱すると、人も流れも少しは冷静にみれるようだ。 
トップに立つ人間、特に行政の長は融通無碍の人であるべきだと思う。 憲法を守ろうとする人は左寄り、人権を守ろうとすると左翼系、常識ある発言をしても先ほどのように「共産党?」なんて言われたら、相手の能力を疑う。 
そ んな判断からいけばコイズミも安倍も含めて自民党、民主党のなかには右翼、右翼系がごろごろいる。
でも、昨今、憲法を基軸に仕事をする役人も少なくなった し、まともにしゃべって行動しているだけで公安から自衛隊にまで監視される嫌な時代になったことは確かだ。 
蜷川さんが言った「反共は戦争の前夜」は名言 だ。大連立構想って怖いよなあ。