政治家への転身、京都府知事へ
1948年(昭和23年)に初代の中小企業庁長官となったものの、吉田茂首相と中小企業政策をめぐって対立し1950年(昭和25年)に辞任。同年、日本社会党公認・全京都民主戦線統一会議(民統)推薦で京都府知事選挙に立候補し当選、以後7期28年間知事を務める。
なお、同年には参議院議員選挙と京都市長選も行われ、それぞれ民統が推した大山郁夫・高山義三が当選する。
しかし高山市長はその後保守系に軸足を置き始め、高山が市長を退き国立京都国際会館館長になった後でも確執が続いた。
府政後半
しかし後期になると状況が変わる。このころ、蜷川に対し古巣の社会党が露骨な個人的要求を突きつけるようになっていた。蜷川はそれを嫌い、もうひと つの与党「共産党」に力を与えるようになった。
それに伴い、共産党は京都府全体で急速に勢力を伸ばすようになったのだが、逆に社会党は勢力がダウンしてい き、彼らは蜷川や共産党を目の敵にし始める。
同時に府政のバランスが悪くなりイデオロギー色が急激に強くなっていった。
加えて自慢の府政でも問題も発生する。
例えば、交通・生活行政。蜷川府政の下、山間部や日本海側の開発は急激に進んだのだが、都心部では住民の開発 反対運動の意向を蜷川が気にしたため(蜷川の支持母体は都市部の住民団体が多かった)、あまり手をつける事ができなかった。
この影響で、都市部の上下水道等のインフラ整備や道路の舗装は大幅に遅れ、「道路や下水道の様子を見ると京都に入ったのがわかる。」と揶揄されるほどであった。
また、教育問題や福祉などでも「蜷川府政の教育政策は悪平等で競争をさせず生徒を甘やかし、駄目にするだけだ(京都大学への府立高校からの進学率低下などが材料にされた、またスクールウォーズのモデルになった伏見工業高校のように荒廃した公立校も数多く出ていたため。ただし伏見工業高は市立校である)」「学校内外で教職員組合の横暴が過ぎる」「税金によるばら撒き福祉だ」という批判が頻繁に出されるようになった。
府で大量に雇った公務員の質の問題も取りざたされ、地元マスコミ(京都新聞など)による追及が連日連夜繰り返された。
それらの逆風がふいても、蜷川知事は高い実務能力と、膨大な公約実現で積み重ねてきた信頼を武器に、5期目・6期目の選挙でも圧勝する。
蜷川はこの 勢いに乗り、一気に行財政改革を進め、府の機構を効率化した。
また、今までの企業誘致策や観光施策をより進めたことで、この時期、他自治体が非常に苦しん だオイルショックによる税収減も難なく乗り越える事ができた。
知事引退から死去まで
しかし、7期目を目指した1974年(昭和49年)の知事選では自民・公明・民社に加えて社会党右派までが推した対立候補(前社会党参議院議員だった大橋和孝。大橋は蜷川の推薦を決めた党本部の方針に背いたとして後に除名処分となる[1])に大苦戦。
わずか4千票の僅差でようやく当選したものの、この苦戦や自らの年齢(当時78歳)に限界を感じた蜷川は、1978年(昭和53年)に知事を引退。
蜷川にとって最後の京都府本会議で、府議会議員であった野中広務は『横綱に子供が飛びかかる光景』、『議場が蜷川教授の教室』と例えた演説を行った。
その後の1978年京都知事選で、後継の杉村敏正候補が自民推薦の林田悠紀夫に敗れ、28年間にわたる革新府政は終了した。
その後は、悠々自適の余生を過ごし日本共産党の応援などをしていたが、1981年(昭和56年)3月に84歳で死去した。
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